嘘の価値観と闘う
さんざん、母親の嘘の価値観に騙されて生かされてきました。
自分が、母親に騙されて生きていたことにやっと気づきました。
早いとか遅いとか、そういう後悔はまったくありません。
今、自分が気づいていることに悦びを感じます。
今、母親と実際に対峙して、母親を論破する勇気も自信もありません。
ただ、こころを閉ざして、冷たい表情をする自信はあります。
そう言えば、かつてぼくに敵意を持つようになった他人から、そういう表情をされたことは何回もあった記憶があります。
自分がさんざんされてきたことを、母親にして返すだけのことです。
いい人間になろうと思っていた自分が今ではバカみたいです。
もっと自分に都合よく生きようと思います。
自分に都合よく考えることと、個ということには関連がある、というのが最近のぼくの中にあるテーマです。
西洋の個人主義というものは、自分に都合よく考えることの最たるものではないでしょうか?
個人的な考えではありますが、西洋の個人主義と東洋的な考え方を比較してみたいと思っています。
キ○ガイ人生
もう、すっかりアタマがイカれてしまいました。
思えば20歳の時から、得体の知れないキ○ガイ薬を飲まされてきました。
何十年も毎日毎日薬漬けです、
カラダもアタマもボロボロになって当然です。
廃人になりました。
疲れました。
命を削ってブログを書いているような気がします。
薬に頼らないで、食べもので病気治しをすればよかったのかな?とも思います。
結局、阿鼻叫喚の中で生きて一体ぼくは何をしたのでしょうか?
ただ慌てふためいて、恐怖におののいて、後悔と罪悪感に押し潰され、人一倍責任を感じ、家畜のようにメシを食べ、薬を飲んで一生を終えるのです。
やはり、このブログを書くにあたって最初から分かっていた通り
ぼくの人生は意味がないのです。
ぼくがこの世に生まれた意味がないのです。
戦争中に生まれていて、戦争に駆り出されても、結局は戦争神経症を発症して使いものにならず、戦後は戦争ボケになって、無駄な一生を送るでしょう。
生まれないのが正解でした。
自殺する勇気もありません。
無駄の一言です。
権利について考える
今回は権利について考えてみました。
ぼくは権利という考え方は、肉食をする西洋から始まったと考えています。
肉のどの部位を自分が食べるか、これこそが権利の始まりだと思います。
ヨーロッパのある村のコミュニティーで、これから冬を迎える為、豚を一頭解体するとします。
この豚を食べて冬を越すのです。
豚のどの部位を、どれだけ手に入れるか、生きていく為には重要なことです。
どの部位も、他にひとつとして代わりはありません。
ロースは限られています。
バラ肉も限られています。
レバーだって、タンだって、心臓も、腎臓も限られています。
だから、どの部位をどれくらい貰うか、損をしない為、自分が生きていく為には、はっきりと欲しいものは欲しいと主張しなければいけません。
この主張こそが権利の原点です。
村のコミュニティーを拡げたものが、社会です。
限られたものを自分のものにする為の主張が権利ということになりましょう。
かたや、アジアのような穀物を食べて生きている国を考えてみましょう。
米は、肉のような部位という概念はありません。
量です。
米一粒一粒は大切ですが、代わりはいくらでもあります。
この辺が、ヨーロッパとアジアの人に対する考え方の違いかもしれません。
米一粒一粒は唯一でありながら、沢山あって代わりがきくのはアジア的思考。
肉の部位は唯一で、代わりはきかない。
一神教が成立するのも頷けます。
米を沢山欲しければ、主張するより力、権力が必要です。
あいつより偉ければ、地位が高ければ沢山米が手に入る。
個人でうんぬんとするのではなく、共同体の中で上下関係を作り、支配と被支配の中で生きていく。
権利というよりは、命令、決まりが優先される。
米を食べて生きていくには、しがらみに縛られなくてはいけないので、イヤですね。
共同体から外れることには、非常に恐怖を伴います。
米は一人では作れないので、みんなの輪から外れたら、死を意味します。
一人で生きていこうにも、村人の視線と闘いながら生きるのは不可能です。
外れた場合は、ひっそりと誰にも見られず、でも誰かに食べものを世話して貰って生きなければいけません。
ひきこもりの原点がここにあると言えますね。
豚を食べて生きていく世界では、共同体がイヤになったら、さっさとアウトサイダーになり、一人で魚を釣って食べていけばいい。
スナフキンのように生きていけばいいんですね。
カッコイイ。
肉を食べる世界。米を食べる世界。
外れ者には、どちらが住みやすいのか?
What do you think ?
父親似と言うことで責任逃れがしたいらしい
ぼくの不満は、すべて母親に向かっています。
母親は、どうやら責任逃れがしたいらしいです。
ぼくはどうも青年期に、その能力のなさ、才能のなさを、母親に見抜かれたようです。
こいつは、父親(夫)と同じでボンクラだ。
いや父親(夫)以下だ。
こいつに未来はない。
あっても、父親程度の人生しか送れないだろう。
と思ったのでしょう。
母親は、父親と出会ってすぐに父に失望したようですが、悪いのはそうと分かりつつ父と結婚し、子供を産んだ母親であって、ぼくには責任はありません。
父が嫌なら結婚しなければいい。
それでも世間体を気にして無理して結婚したのなら、子供を産まなければいい。
でもやはり、世間体を気にして子供を持つのならば、地獄は受け入れるべきですし、それを選んだのも母親自身だから、最後まで責任を認めて面倒を見るべきです。
案の定、父親は母親にとっては最悪の夫でした。
また、父親にとっても母親は最悪の妻でした。
父親は母親の元から逃げたのでいいですが、残されたぼくにとっては、最悪の子供時代の幕開けでした。
DNAの呪いにより、ぼくは段々かつての最悪の夫に似ていきました。
何かにつけて、「お父さんにそっくり」と言われて育ちました。
このシステムの巧妙なところは、前もって父親を悪く言うことです。
そして、ぼくのちょっとした仕草や口ぐせが父親に似ていたら、
「今の仕草はお父さんにそっくりだったね」
「口ぐせがお父さんそっくりだったよ」
とやります。
やられたこちらの言いようのない何とも胸クソの悪さったらありません。
まるで、継母のようですね。
変な継母ですね。
ぼくは、ずいぶん母親にも似ているのですが、母親からしたらそれを認めることは敗北につながるので絶対にしません。
父はすでに亡くなりました。
母も後数年の命です。
ぼくのこのモヤモヤとした気持ちは、どこへ行ってしまうのでしょうか?
エネルギー保存の法則は、心のエネルギーにも当てはまります。
継母?から受けた負のエネルギーは、
ぼくの、ノイローゼや、躁鬱病、各種神経症という形に変わっています。
もはや、母親が出発点とは言えないところまで何かが見えて来ました。
家のカルマというのか、家族のカルマというのか、こういう負のエネルギーって、どうやって逃がしてやればいいのでしょうね。
やはり、信仰が必要なのでしょうか?
ぼくは、毎日お経を唱えて、お行をするべきなのでしょうか?
どこまでも真面目なぼくでした。
トホホ💦
これからの世の中について
ぼくの世界観は少し宗教じみています。
人間は死んだら霊界に行くと信じています。
輪廻転生も信じています。
神や仏の存在も信じています。
バチというのもあたると思っています。
たたりもあると思います。
でも、伝染病をたたりだという非科学的な思考はないです。
幽霊もいるでしょう。
それらを踏まえて。
現在、日本という国は少子化です。
これは、この世に生まれてくるということの難しさを表しています。
以下はまったくの受け売りの知識です。
人間は、物資文明の発達により、病気や飢餓で死ななくても済むようになりました。
そして、地球上に人口が増えました。
みんなが幸せに暮らすためには、ひとりひとりが勝手気ままに生きているとマズイよねという時代になってきました。
そこで必要とされることは、個人個人の霊的な成長である、と考える人々が出てきました。
主に、ヨーガの指導者や、スピリチュアルな世界に生きている人々でした。
結論から言うと、これからの世界は選ばれた者しか生まれない。
自分勝手な考えしかできない人は、淘汰されてしまうということです。
ぼくみたいな人間は、もうこれからの世の中には必要ないみたいです。
やれやれ、やっとお役ご免です。
この地球上に真の世界平和は200年から300年後に訪れるということです。
霊的に進化した方、他人を思いやれる人々が住む神の国にぼくはいません。
ぼくは、霊界で地獄に堕ちて、永遠に苦しむのでしょう。
生前、ぼくと関わり、ぼく以上にゲスだった人々と共に。
間違ってばかりいるのはストレスがたまっているから
何かやる気になれない。
真面目に物事に取り組む気になれない。
よくわからないのだけれど、シラケてしまう。
こういう心理状態におちいっている時、実はわたし達には自分では何となく自覚できないストレスがかかっている。
つまり、ストレスのためにやる気が出ないのだ。
また、何か生きているだけで間違いばかりしてしまう。
こういうことをしていてはいけないのに、ついついやってしまって(言ってしまって)墓穴を掘っているよな〜何でだろう〜?という時も、もはや手遅れなくらいストレスがたまっている。
よく、われわれは真面目に物事に取り組めない人に対して
「なってない!」とか、
間違いばかりする人を
「アイツはバカだ!」
と、言い捨てて問題の根源に気づこうとしない。
問題はそういう状態の人の心理の底には、とてつもないストレスがたまっているということに気付いてあげるべきなのだ。
そして、そのストレスが何であるのか言語化するといい。
絵画による表現もいい。
音楽による表現であれ、非行やグレる、反抗するという行為であれ、何らかの形で気付き、そして発散する行為が必要となる。
それらがない者は、将来、精神的な病気という形でそのストレスのエネルギーを発散する。
病気になった場合は、自分が病気の原因に気づかないと治らない。
ぼくは、典型的なあらゆるストレスをためこむ派で、小さな頃から間違いばかりしていた。
中学生の頃から、何か違和感を感じ始めた。
ストレスもかなりたまっていたようである。
高校生になると、いよいよ抑圧していたストレスがいろいろな精神的な症状として出てきた。
最初はストレスで勉強が頭に全く入らなくなった。
対人関係が築けなくなった。
授業中、ヒステリー球に悩まされるようになった。
何もかもうまく回らなくなってしまった。
毎日がつまらなく暗い表情で、覇気もなく、常に何かが違う感じ。
でも、何をどうすればいいのかわからない。
このままではいけない。でも、時間ばかりが過ぎていく・・・。
そうして、高校を卒業して○十年の月日が経ってしまった。
もう、人生も先が見えた頃に、こんな当たり前の大切なことに気づいたわけだ💦
テレビなんか見たくない
ぼくもついにテレビなんか見たくないっ!って言える年齢になりました。
なぜテレビが見たくないのかと言うと、それはテレビがつまらないからです。
どうつまらないか?
ワイドショーが多すぎる。
コメンテーターは、あたりさわりのないことしか言わない。
最大公約数的なことを言ってお茶を濁しています。
バラエティー番組がつまらなさすぎる。
これも、出ている芸人やタレントが毒にも薬にもならないことしか言わない。
その場だけ和気あいあいとやれればそれでよし、と思って番組に出ているからです。
見ている方は何もおもしろくない。
アイドルもタレントも芸人も俳優も文化人も、今や誰からも突っ込まれない、後から問題にならない無難なことしか言いません。
こんな状態でおもしろいテレビが作れるはずはありません。
そんな中、坂上忍のバイキングは、唯一違います。
彼は、無難なコメントでお茶を濁そうとはしません。
が、周囲の人間が彼を嫌っているようです。
今の日本では、いえ、この日本という国では昔も今も、本音を言う人間は嫌われて排除される運命なのでしょうか?
空気を読み、あたりさわりのないことを言い、何の記憶にも残らないバカ騒ぎをやって時間をつぶすことが、日本的な生き方なのでしたら、ぼくはこの国にいる以上、永遠にアウトサイダーになります。
いるのかいないのかわからない人。
いてもいなくてもいい人。
誰の記憶にも残らない人生を送って、ひっそりとこの世を去りたいと思います。