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ノイローゼ、視線恐怖症、対人恐怖症、躁鬱病、引きこもり

権利について考える

今回は権利について考えてみました。

ぼくは権利という考え方は、肉食をする西洋から始まったと考えています。

肉のどの部位を自分が食べるか、これこそが権利の始まりだと思います。

ヨーロッパのある村のコミュニティーで、これから冬を迎える為、豚を一頭解体するとします。

この豚を食べて冬を越すのです。

豚のどの部位を、どれだけ手に入れるか、生きていく為には重要なことです。

どの部位も、他にひとつとして代わりはありません。

ロースは限られています。

バラ肉も限られています。

レバーだって、タンだって、心臓も、腎臓も限られています。

だから、どの部位をどれくらい貰うか、損をしない為、自分が生きていく為には、はっきりと欲しいものは欲しいと主張しなければいけません。

この主張こそが権利の原点です。

村のコミュニティーを拡げたものが、社会です。

限られたものを自分のものにする為の主張が権利ということになりましょう。

かたや、アジアのような穀物を食べて生きている国を考えてみましょう。

米は、肉のような部位という概念はありません。

量です。

米一粒一粒は大切ですが、代わりはいくらでもあります。

この辺が、ヨーロッパとアジアの人に対する考え方の違いかもしれません。

米一粒一粒は唯一でありながら、沢山あって代わりがきくのはアジア的思考。

肉の部位は唯一で、代わりはきかない。

一神教が成立するのも頷けます。

米を沢山欲しければ、主張するより力、権力が必要です。

あいつより偉ければ、地位が高ければ沢山米が手に入る。

個人でうんぬんとするのではなく、共同体の中で上下関係を作り、支配と被支配の中で生きていく。

権利というよりは、命令、決まりが優先される。

米を食べて生きていくには、しがらみに縛られなくてはいけないので、イヤですね。

共同体から外れることには、非常に恐怖を伴います。

米は一人では作れないので、みんなの輪から外れたら、死を意味します。

一人で生きていこうにも、村人の視線と闘いながら生きるのは不可能です。

外れた場合は、ひっそりと誰にも見られず、でも誰かに食べものを世話して貰って生きなければいけません。

ひきこもりの原点がここにあると言えますね。

豚を食べて生きていく世界では、共同体がイヤになったら、さっさとアウトサイダーになり、一人で魚を釣って食べていけばいい。

スナフキンのように生きていけばいいんですね。

カッコイイ。

肉を食べる世界。米を食べる世界。

外れ者には、どちらが住みやすいのか?

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